- T O K I N O C H A Y A -
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約束 -やくそく-

 ――その少女が初めてこの病院にやって来たのは、そろそろ陽射しが肌を刺し始める、よく晴れた初夏の日のことだった。
 後で判ったことだが、少女はそれまでにも幾つかの病院を転々としていたらしい。
 陶器のように白く透き通った肌に、烏の濡れ羽を思わせる長い黒髪。日本人形のように整ったその顔には、年齢には見合わぬ、昏い疲れの色が表れていた。

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 少女の病室は新棟の二階にあった。部屋の窓からは、病院の東側にある庭が一望できる。庭には銀杏や桜、梅などが植えられ、その幹の間を縫うように小路が巡っていた。


 そして病室の正面には、一本の八重桜がその腕(かいな)を大きく天に広げていた。その幹は大人が二人がかりでようやく抱えられるくらいに太く、枝は子供の胴ほどもある。そのうちのひとつは、少女の病室の窓に向かって伸びており、窓から身を乗り出せば梢の先に触れることができた。

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 ――私は、少女が初めて窓の外を眺めたときに口にした言葉を、今でもよく覚えている。
「あの桜の木がまた花を咲かせるまでに、元気になれたら、いいな……」
 だが、私は知っていた。
 少女の命が、もう長くはないことを。
 私はそれまでに、何人ものそんな子供たちを見てきたのだから。


 ――やがて夏が来た。
 止むことを知らぬ蝉時雨を聞きながら、少女はよく私に話しかけてくれた。
 たった一人ベッドの上から窓の外を眺めるだけの病室の中で、時折見舞いに訪れる両親や友人たちを除けば、私は唯一の話し相手だったのだろう。
 少女は旧知の友人のように私に親しく語りかけた。私もまた、彼女のよき友でありたいと願った。
 その頃、少女はよく「約束」という言葉を口にした。「来年の春、花が咲くまではどこにも行かない。約束よ?」それが、彼女の口癖だった。
 あるいは、少女には解っていたのかもしれない。
 己が、次の花の季節まで、生きられないだろうということを。


 ――山々が赤や黄に染まり、陽の光がその力を失っていくにつれて、少女の容体は悪化した。
 その表情からは目に見えて生気が失せ、もはやベッドから半身を起こすことすらままならず、両親や友人たちにも弱々しい微笑みを返すことしかできなくなっていた。
 私は、少女の髪を撫でてやることも、小さな手を握ってやることもできない我が身を呪った。大切な友人に、何もしてやれない自分が情けなかった。
 だが、少女はそんな私にも笑いかけてくれた。しかしそれは、あまりにか弱く、あまりに痛々しい微笑みだった。


 ――そして、町にその年初めての雪が降った夜――
 純雪のように真っ白な寝間着の胸元を鮮血に紅く染め、少女は苦しげに喘いでいた。
 危篤の報に駆けつけた両親や友人たちは押し黙り、あるいは涙をこらえ、少女を見守る。
 ベッドの傍らに立つ医師は、もはや治療を諦めていた。
 誰の眼に見ても明らかな、少女の死。
 私も、ただ少女を見守ることしかできなかった。
 悔しかった。だが、私にはどうすることもできないのだ。
 それまでにも、幾度となくこんなことはあった。その度に、己の無力さを思い知らされてきた。しかし、それでも、私は――


 ――その時、少女が私を見た。首を巡らせ、微かに口を開く。苦しげな吐息の間に、途切れ途切れになりながら――
「ごめんね、約束、守れなかった……」
 ――約束。
 少女が、口癖のように語った言葉。
『あなたが、また花を咲かせるまでは……』
 その時。
 私の中で、何かが弾けた。

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 突然、少女の友人の一人が声を上げた。眼を見開き、窓の外を指差す。
 何事かと振り返り――そして、誰もが息を呑んだ。
 暗闇の中、静かに雪が降り積もるその先に、満開に咲いた八重桜――
 この世のものとは思えぬその光景に、皆がしばし言葉を失った。


 白いベッドの上に横たわる少女の頬を、一筋の涙が伝った。微かに、小さな唇が動く。
 そして、少女は眼を閉じ――
 その瞳は、二度と開かれることはなかった。

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 ――「ありがとう」
 声に出すことのできなかった少女の最期の言葉を、私は確かに聞いた気がした。


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